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ワンキャンパスで学んだ先輩たちのストーリーを大学生のインタビューでお伝えします。

Stories - 卒業生インタビュー -企画について

【目的】
成城学園同窓会は、同窓生相互の親睦を図り、かつ母校の発展に協力することを目的として設立され、
これまでに多岐に亘る事業活動をしてきました。
事業活動の1つとして学生支援も行っています。

今回は、経済学部の境新一先生のゼミ生と連携し、
「実社会に向けて見識を深められる機会を提供できれば」という学生ファーストの視点で、
各業界で活躍中の卒業生へのインタビューを通じ、社会人形成期にあらたな発見と知見を拡げられる
支援を企画しました。

第8回卒業生インタビュー

取材日時:2023年5月23日(木)16:00~17:30

取材相手:キャリアカウンセラー/ジャーナリスト 飯田絵美氏(36回文芸D)

 

Q.大学時代はどんな学生でしたか。

何事にも一生懸命な学生でした。部活もアルバイトも勉強も、本当にすごく一生懸命にやっていたと思います。特に大切にしたことは、学校以外での活動です。違う大学の友だちをつくったり、大人に会って話を聴かせてもらったり、自分のコミュニティ、テリトリーを増やすことを意識して実践していました。
高校2年生の頃から「将来はスポーツの記者になりたい」と考えていたので、スポーツに関する勉強、記者になるための人脈やコミュニティつくりに取り組んでいました。

 

Q.マスコミ関係で働きたいという思いから、短大から4年制に編入したと伺いました。
入の決断をした当時の心境をお聞きしたいと思います。 

当時はインターネットがなかったので、「新聞記者になるにはどのような条件や資格が必要なのか」について明確に知りませんでした。
短大2年生になって就職活動を始めたとき、「新聞記者になるためには、4年制大学を卒業しなければいけないのだ」と知りました。
その時点で編入試験の準備が間に合わないと判断し、「専攻科へ進んでから編入試験を受けよう」と思いました。新聞社の受験する資格を得るために4年制大学へ編入したのです。

 

Q.大学時代の一番の思い出は何ですか。 

短大、専攻科を経て大学の3年生に編入したので計5年間、
成城で学校生活を送りました。
一番強烈な記憶があるのは「編入した後」の生活です。私が3年生に編入した時点で、これまで同級生だった友だちは4年生になる。
つまり、これまでの同級生が「先輩」、後輩が「同級生」になったのです。その変化に戸惑いました。さらに、当時は短大で履修した単位を編入先の大学側からすべて認めてもらえるわけではありませんでした。
1、2年生時の一般教養科目など必修科目の多くは、もう一度受講し直す必要があったのです。1年生たちと一緒に体育やフランス語の授業を受けていると、「あの人、先輩でしょ?なんで私たちと一緒に受けているの?」というひそひそ声が聞こえました。「不真面目な学生だから留年した」と勘違いされたようです。
誤解されてよそ者扱いをされる、という経験は、それまで順風満帆に生きてきた私にとって初めての挫折でした。
孤独や疎外感を味わいましたが、「新聞記者になる夢があるんだ。社会に出たら年齢や学年なんて関係なくなる。気にしちゃダメだ」と葛藤しながら、授業に出席していました。
それでも、授業内容は好奇心を満たされて楽しかった。
教授に質問をすると丁寧に教えてくださった。朝から夕方まで授業を受けていましたが、夢に向かって有意義な生活を送っていたことが非常に印象に残っています。

 

Q.何の部活動に所属していましたか。

体育会男子グランドホッケー部に所属し、マネージャーとして短大の2年間を過ごしました。スポーツの主役は選手、彼らが輝けるようにマネージャーはボールを拾ったり、スポーツドリンクを作ったり、プレーができる環境を整える。「選手が輝くためにサポートする」という意味で、マネージャーとスポーツ記者の仕事は似ているなと思いました。

Q.スポーツ記者を目指された理由と、いつ頃から考えていたのでしょうか。

父親が実業団リーグのバレーボール選手だったこと、バレーボールや野球などの試合に幼い頃から連れて行ってもらったことで、スポーツが身近にありました。スポーツの素晴らしさを感じ、オリンピックに憧れました。しかし、私の運動能力や身長では何かの競技で日本代表選手になれないだろうとも感じました。
でも、どうしてもオリンピックを目の前で見てみたい。選手と話してみたい。
そこで高校2年生のとき、「スポーツ記者になれば、オリンピックの現場に立てるのではないだろうか」と考え、将来はスポーツ記者になることを目指すことにしました。

 

Q.スポーツ記者として、産経新聞社を選ばれた理由を教えてください。

最初から産経新聞社に入ろうと思っていたわけではありません。
「スポーツ記者」を希望して複数の新聞社や出版社を受験。
「スポーツやイベント担当業務」を希望してテレビ局や広告代理店を受験。
このように多くのマスコミ企業の面接を受けました。その中で、産経新聞社とご縁をいただいたのです。
行動することを妥協しない社風、自宅から会社まで電車1本で通勤できる利便性が良かったですね。

 

Q.これまでに最も印象的だった取材を教えてください。

20年以上新聞記者をやってきたので、ものすごくたくさんあるのですが、やはり一番印象に残っているのはプロ野球の名将、野村克也さんの取材です。
私が東京ヤクルトスワローズの番記者になったとき、監督をなさっていたのが野村さんでした。
「番記者」というのは、1年間を通じてそのチームにぴったり張り付いて取材する記者のこと。
選手の家族より、番記者の私の方が選手と一緒にいる時間が長いくらい、活動を共にします。
しかし、番記者になった最初の1年間、野村監督が口を聞いてくださらなかった。ずっと無視をされていました。「おはようございます」「お疲れ様です」と挨拶しても無視。まるで目の前に誰もいないかのような対応をされました。
そんな生活が1年間続き、やはり辛くて苦しくて、毎日家に帰ると泣いていました。
番記者2年目、監督が心を開いてくださったときはとても嬉しかったです。記者人生の中で、最も苦しくて嬉しかった取材という点で、野村克也さんの取材が最も心に残っています。

 

Q.一年間、監督に話を聞いてもらえなかったとお話されていましたが、このような辛い経験をどのように乗り越えられたのでしょうか。

1つ目は、「心を発散する」こと。自分の中に不満や苦しさを溜めず、信頼できる人たち…親や会社と関係ない学生時代の友だちに本音を話しました。
2つ目は、「私からは嫌いにならない」ということ。相手がどれだけ私を避けたとしても、私から不愉快な態度を取ったり逃げたりはしない。野村監督が球場に到着したら駆けつけ、「おはようございます」と挨拶する。試合が終わると、「お疲れ様です」と声をかける。それを毎日、繰り返しました。そういう姿勢でいると、周りの人たちが見てくれているんですよね。「どうせ、野球わからないでしょ」という態度だった選手やコーチも、段々と口を開いてくださるようになって、記者仲間もフォローしてくれるようになって、少しずつ味方が増えていきました。
もし、私が不貞腐れた態度を取っていたら、味方はできなかっただろうと思います。
やっぱり、「一生懸命、ひたむきに、前向きに取り組んでいる」姿を周りの人は見てくれている。
これは、どの仕事でも共通することだと思います。

 

Q.記者の世界は男性が多い環境だと思いますが、何か苦労されたことはありましたか。

女性が少ないという事実は、入社した30年前も現在も同じでしょう。
特に新聞業界、スポーツ業界は、男尊女卑、男性優位という傾向が伝統的にあります。
男性の先輩記者からやっかみを受けるというか、
「監督や選手から名前を覚えてもらえるから女はいいよな、得だよ」と吐き捨てるように言われたことは何度もあります。確かに女性記者は数が少ないので、印象に残りやすい。
名前を覚えてもらえる可能性は高い。
でも一方で、「女性だから」という理由で、ものすごく辛い、理不尽な対応が数多くありました。
良い記事を書いたり、スクープ記事を見つけたりしても、
「よく頑張った」「お疲れ様」と素直に認めてもらえる機会は少なかった。
「どうせお前は女の部分を使っているから」「女はずるいよな」と言われる場面が多くありました。
好結果を出してもまっすぐ評価されない経験をしたことで、「他人が成功したり特別に見えたりしても、
その人の足を引っ張ったり、茶化したりする言動は絶対にしない人間になろう」と強く意識しました。人が持っているもの、成し遂げたものを見たとき、「羨ましい」と思うのは自然な感情ですが、「ずるい」というようなやっかみ、妬みの感情では反応しない、という姿勢を学びました。

Q.野村克也さんや一流選手と話す機会が多くあったと思います。話している中で、何か感じたことはありますか。

一流選手と呼ばれる人たちは、心も体も強い。
だから「一流」と呼ばれます。その中には、取材の際に「この人はきつい、人当たりが強いな」と感じる選手もいました。
しかし、王貞治さんや長嶋茂雄さん、野村克也さんといった「超一流」と言われる方は、スポーツの技術だけでなく、人間的にも素晴らしい。
誰に対しても分け隔てなく接してくださる。話を丁寧に聞いてくださる。懐が深い。「柔らかさ」を感じました。これは、スポーツの世界に限らないのかもしれません。
強さだけでなく、柔らかさ、しなやかさがある。そこが一流と超一流の差だと、私は感じました。

 

Q.野村克也さんや王貞治さんとは、お仕事以外でも交流があると伺っております。お二方と接する上で最も大切にしていることは何ですか。

 ありがたいことに、お二人とは仕事ではなく、プライベートな時間にお会いする関係が24年近く続いてきました。「尊敬しています」という気持ちが相手に伝わるように心がけてきました。
そして基本的なことですけど、大切なのは礼儀ですね。
まず、遅刻をしないこと。野村さんや王さんとお会いする際、
絶対に遅刻をしたくないので、お約束した時間の1時間前には現場に着きます。先に到着し、私がお迎えする形を取ります。
約束の20分前頃から、部屋の入口に立ってご本人がいらっしゃるのをお待ちします。お礼状を書くなど感謝の気持ちを伝えることも大切にしています。私の方が年齢も若く経験も少ないのに、わざわざ時間をつくって会ってくださるわけです。感謝の気持ちしかありません。だから「学ばせていただこう」という気持ちはもちろん持ちつつ、「何かお役に立てないだろうか」という気持ちは常に持っていますね。
あと、自分について素直に打ち明けることも心がけています。
格好をつけたり、知ったかぶりをせず、知らないことやわからないことは素直に打ち明け、謝り、
教えていただく。親しくなるにつれて、自分の仕事やプライベートで困ったこと、
うまくいかないことなど、個人的な相談もさせていただきました。
「一人の人間として本音で付き合わせていただく」という思いで向かい合ってきました。
おかげで、野村さんや王さんとプライベートな時間を過ごす関係が、24年近く続いてきたのかなと
思います。彼らのような成功者は、必ずしもずっと成功しているわけではない。
気持ちの落ち込みとか、うまくいかないことは、どんな人にでも必ずあるんですよ。
たとえば、取材していた選手が引退したり、トップの座から落ちてしまったりというときも、
私は変わらずその人との付き合いを続けてきました。
その姿勢を忘れず、野村さんや王さんの心に寄り添うために、自分の休み・お金・エネルギーを使って、大阪や福岡へ会いに行き、仙台にも通いました。そんな行動をずっと続けてきました。

 

Q.ところで、これまで「取材」という仕事で一番失敗したと感じたことは何ですか。

入社1年目の新人記者の頃、バレーボール担当になったときの話です。
当時、埼玉県を本拠地にイトーヨーカドーという女子バレーチームがありました。
韓国人の朴監督にインタビューをさせていただこうと、60代くらいの産経新聞の大先輩の記者と一緒に
現地を訪れました。
その日、インタビューは夕方から始まり、大変盛り上がりました。
「夕食をご一緒に」と朴監督から誘っていただき、大先輩の記者と一緒にご馳走になりました。
会話が弾んで夜21時を過ぎた頃、「もう遅い時間だから」とチーム側が
宿泊用のホテルを用意してくださったんです。翌日、東京に戻った私が会社で資料を集めていたら、
大先輩記者に偶然お会いしました。
「昨日はお疲れ様でした」と声をかけると、
「君、朴監督にはお礼のご連絡を入れたか?」と尋ねられました。
ご連絡をしていない旨を伝えると、「バカもん!君はインタビューをさせてもらって、食事もご馳走になって、ホテルまで取ってもらって、それでお礼を伝えていないのか。そんなの社会人として常識だろう!」と、ものすごく叱られたんです。
そのときは「すみませんでした」と謝ったのですが、心の中ではちょっと不貞腐れた気持ちがありました。
「社会人として」ありえないと指摘された惨めさ、この件を親に知られたら叱られるだろうという決まりの悪さ、他の記者たちがいる前で叱られた恥ずかしさ、そんな感情で心がぐちゃぐちゃになり、お叱りの言葉を素直に受け取ることができなかったんです。
それでも、「人に親切にしていただいたのに、お礼をすぐ伝えなかった。確かに私の態度は大変失礼だ」とものすごく反省の気持ちが湧いてきました。
すぐにデパートへ行ってお菓子を買い、お礼状とお詫び状を手書きで書いて送りました。
数日後、受け取った朴監督が大先輩記者に電話で連絡を入れてくださって、
「彼女は若いのに気遣いができる。素晴らしい記者さんだね」と、
私のことを褒めてくださったそうなんです。大先輩記者が「朴監督がそう言って褒めていたよ。
君は素晴らしい人だね。僕に叱られて、自分の誤りに気づいたらすぐに動いた。
なかなかできることじゃないよ」とねぎらってくださった。その言葉を聞きながら、涙が出ました。
私は最初、心の中で不貞腐れて言い訳をしていた。心から謝ったわけではなかった。
それなのに、こうやって褒めてくださって、許してくださって…。
すごく申し訳なくて、褒められたことが恥ずかしかったです。それ以来、叱ってくださる人を大切にしよう、叱られたことはまっすぐ受け止めよう。
そう思うようになりました。叱るという行為は、愛情がないとできないからです。

失敗はたくさんしてしまうものだけれど、そのときに大事なことは隠さないことです。
そして、「申し訳ない」という気持ちを相手にちゃんと伝わるようにすること。
「新人だから仕方がない」とか、「女性だから」「新聞記者だから」とか、全く関係ない。
何歳になっても、自分が失敗したとき、素直に謝れること。それを伝わるようにすること。
これはすごく重要です。コミュニケーションの基本だと思います。
この失敗から私はものすごく学びました。

学生の間は親が叱ってくれますけど、大人になると叱られることは本当に少なくなるんですよ。
特にいまは、簡単に「ハラスメントだ」と言われてしまう時代。
先輩や上司が「本当は、この子のために言ってあげたい」と思うことがあっても、
「パワハラとかセクハラと言われたら嫌だな」とためらって、言いづらくなっているそうです。
でも、叱ってくれる人は本当に貴重なので、そこは「素直に受ける」ことが大事だと思います。
そういう人に助けられてこそ、仕事ができるようになる、人として成長できる。
失敗をしないように気をつけることも大事ですけど、失敗した後にどう立ち上がるか―。
そこを人は問われているのだと思います。

 

Q.記者の仕事で一番やりがいを感じるのはどんなときでしょうか。

インタビューをするとき、テレビ局やラジオ局、出版社は、選手や芸能人の方に謝礼を支払うのですが、新聞社は謝礼を支払わない媒体です。
「お金をくれる媒体とお金をくれない媒体、どちらと話がしたいですか?」と言えば、お金をくれるほうがいい。
「じゃあ、お金を払ってくれない媒体の新聞記者である私に、どうやったら心を開いてもらえるかな?」と考え続けてきました。
しかも、新聞記者はものすごく混みいったこと、踏み込んだこと、失礼なことも、ときに尋ねなければならない。だからこそ、自分が取材した選手や監督、選手の親御さんが、心の扉を開いてくれた瞬間、
すごくやりがいを感じます。選手が大切にしている価値観や思い出、大事にしていること、本音、
そういう心の柔らかい部分を聞かせていただける瞬間、ものすごく嬉しい、ありがたい。
たとえば、インタビュー中、私の言葉が琴線に触れて相手の目が変わったり、ワッと泣き出したり、相手の感情がバッと飛び出すような、心が動いた瞬間、すごくやりがいを感じます。
「この仕事をしていて良かったな」と思います。

 

Q.ここからは、新聞社退職後についてお話を伺いたいと思います。
東京オリンピック・パラリンピックでベニューメディアマネージャーに就任されたきっかけは何だったのでしょうか。

子どもの頃、テレビでオリンピックを見て、
「すごいな、直接見てみたい」と思ってスポーツ記者になりました。
「せっかく日本で開催される東京オリンピック。やっぱり直接見たい」と思ったんです。
でもこのまま会社にいたら、きっと若手の記者が現場に行く。
40代より年齢が上の記者は、クーラーが効いた社内でテレビモニターを見ながら、
後輩の書いた原稿を直すのが仕事になるだろう
、私は現場に立てないだろうと思いました。
どうしても現場で汗をかきたかった。だから、新卒から25年以上務めた会社を辞めることにしました。とても勇気が必要でしたが、新聞社を退職し、ベニューメディアマネージャーに挑戦しました。

 

Q.キャリアカウンセラーへの転身を決断されたのはなぜですか。

スポーツの選手が引退する際、本人の希望で辞めるという状況はほとんどありません。けがをしたり、チームから必要とされなくなったり、仕方なく辞めることが大半なんです。
引退した後も、彼らの人生は続きます。競技人生を終えた後、どのような仕事をしていくか―。これが、スポーツ選手の課題です。
長年、さまざまな選手の引退後を見てきたので、私はとても心配していました。野村克也さんも同じように野球選手の引退後を心配していました。
そして私自身、「オリンピックを取材する」という夢を叶えた30歳以降、
「これから何を目標にして生きていこうか」と迷った時期があったんです。
自分のキャリアの悩みを話せる相手がいたら良いだろうなと考え、キャリアカウンセラーへ転身しました。新聞記者とキャリアカウンセラーは、「本音を聴き出す」「心の痛みに寄り添う」点で似ていると感じています。

 

Q.人の痛みに寄り添って本音を聞き出す上で、大切にしていたことは何ですか。

とにかく、「誠実に人と向かい合う」ことだと思います。
相手が高校生の選手であろうと、裏方さんであろうと、有名選手だろうと、私は同じ視点で寄り添います。
有名/無名、プロ/学生、社長/平社員など、肩書によって態度や対応を変えることはしません。誰が相手でもきちんと誠実に向かい合い、相手の希望や状況に合わせて1対1になれる空間をつくる努力をしています。
いまの時代は効率重視で、時間や費用面で割に合うかどうかをすごく気にします。
インターネットで調べるとすぐに答えが出てきます。そんな時代ですけれど、人とのコミュニケーションは簡単に答えが出ないこともある。なので、相手の言葉を急かさないということも大切にしています。
あと、こちらは何にも見せないのに、相手には「全部話してほしい」と言う姿勢でいると、相手はしんどく感じます。だから私自身も、自分が持っている柔らかい部分、傷つきやすい部分、心に抱えているものを打ち明けて、相手との共通項を探しながら話を聴くように心がけています。

 

Q.卒業し、社会に出てから思う成城生の強み・弱みは何だと思われますか。

今日、成城大学に来たとき、小学生が正門案内所の守衛さんと楽しそうにお話をしていたんですよ。
あの様子を見て、「大人に対して物おじをしないで、堂々と屈託なく話ができちゃう。
それが成城っ子の良さだな」と改めて思いました。
学校の規模は大きくないですけど、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学が同じ場所にある。
そんな学校は、日本でものすごく珍しい存在だと思うんです。
つまり、この環境自体が「多様性社会」になっているんですよね。
ほかの大学はタワーマンションみたいに高いビルで、教室はすべてエレベーターで移動、
構内に土や緑はほとんどない、みたいな施設もけっこうあるわけですよね。
やはり「キャンパス」といえば、土や緑など自然が豊富にあってほしい。
成城学園の敷地内は、幼稚園や小学生の子どもたちも、大学生と一緒に歩いている。
すごく良い環境です。

弱みは、学科や生徒数が少なくて規模が小さいこと。
「この小さな世界が自分にとってのすべてであり常識だ」と捉え、その環境で満足してしまう可能性も
あるので、そうならないためにも、学生でいる間に外部のいろいろな世界とつながってほしいな、
と思います。規模が小さいから、社会に出たら、成城大学出身の先輩・後輩と出会う場面はほとんどないかもしれません。
新聞記者で成城大学出身者はとても少ない、という印象です。
でもその分、出会えたときの喜びはものすごく大きい。親しくなれる。
だから、「卒業生が少ない、学閥がない、肩身が狭い、損をする」という発想ではなく、
「数が少ないからこそ良い面があるんだ」と自分の捉え方を変えることが重要だと思います。

 

Q.成城生が弱みを克服するには、どのようなことをすれば良いと思いますか。

これは成城生だけでなく、どの大学の学生さんにも言えることだと思いますが、
「可愛がられる大人になること」だと思います。
「この子には教えてあげよう」とか、「この人は助けてあげよう」と思ってもらえる社会人になれると
良いですよね。
何歳になっても可愛がられる、応援される、味方が増える人になってほしいです。
そのためには、一見当たり前のように見えることを、きちんと行うこと。たとえば、自分から挨拶する、明るい笑顔で接する、遅刻をしない、
人の話を丁寧に聴く、仲間外れをつくらない、相手の良い面を伝える。
そういったことをきちんと実行し、積み重ねていくことで、人から可愛がってもらえるようになると思うんです。
あと、これがなかなか難しいんですけど、「自分の個性を知ること」です。何歳になっても、
「自分ってどういう人間だろう?」と考えることがあります。
学生の皆さんも、いまの時点から「自分がどういう人間でどういう個性を持っているのか」「好き・嫌いや得意・不得意は何か」を意識的に言語化しておくことがすごく重要だと思います。特に自分の嫌いと苦手は把握しておくことをお勧めします。
就職活動や転職の際、自分の進む分野が決めきれずに悩んでも、嫌いと苦手を知っていれば選びやすくなります。そうは言っても、知らないこと、慣れていないことに関して食わず嫌いにならず、何事も一度は挑戦した上で「自分」という人間を理解する方が良いと思います。

 

Q.大学生のころに思っていた社会人のイメージと、実際に働いてみてギャップはありましたか?

4月に入社して、6月には「どうしたら会社を辞められるか」と考え込むほど、学生と社会人にギャップを感じました。
新聞記者がこんなにも長時間働く仕事だとは想像もしていなかったんです。
夜の20時を過ぎても「帰っていいよ」と上司から言ってもらえない。
新聞記者の仕事は長いんです。帰る許可が出るのは、早くて21時半か22時でした。
朝8時から働いていても、深夜0時頃まで働くのが当たり前という環境でした。
社会人になって最も強烈に感じたことは、「働く大人ってすごいな」ということ。
満員電車に毎日乗り、朝早くから夜遅くまで働く大勢の社会人を見て、
「父や母はこんな思いをして、何十年もお金を稼いでくれていたんだ。
税金を納めるって大変なことなんだ」と頭が下がりました。

 

Q.インタビューをさせていただく中で、アイコンタクトや話の間がとても上手いと感じたのですが、
人と話す時に気をつけていることを教えてください。

コミュニケーションにおいて大切なのは、決まった角度に座るとか目線はどのあたりに置くとか、
テクニックではない。「また会いたい人になる」ことだと思っています。その気持ちがあれば、
相手を思いやった良いコミュニケーションにつながります。
そして自分も「相手のことを好きになりたい」という気持ちを持ち、それが伝わるようにする。
自分を好きになってもらい、相手を好きになる。双方向でかかわっていこうとする意識が大事だと思います。

 

Q.最後に、いまの大学生に伝えたいことはありますか。

先程もお伝えした通り、「何歳になっても可愛がられる大人になってほしい」と心から思います。
「大人になったら夢を持つのはおかしい」という風潮がありますが、
「何歳になっても夢を持ち続けてほしい」とも思っています。
「結婚したから」「40歳になったから」など状況や年齢に縛られることなく、
「何歳になっても自分は何にでもなれる!」という気持ちを持ち続けてほしいです。
私が社会に出た時代と比べて、いまは女性が働きやすかったり、法律がしっかり整っていたり、
転職がしやすかったり、働くことにおいて恵まれた環境になっています。
だからこそ、自分のことを信じて、「自分のやりたいこと」と「自分にできること」をどんどん増やし、それが「社会とつながる道」を見つけて生きていってほしい。心からそう願っています。応援しています。

 

【編集後記】

第8回卒業生インタビューでは、産経新聞社でスポーツ記者として勤め、現在はキャリアカウンセラーとして活躍されている飯田絵美さんにお話を伺いました。
飯田さんはインタビューを仕事とされてきた方なのでとても緊張しましたが、明るく、わかりやすく話してくださったので、各々が聞きたいと思ったことを質問しやすく、とても良い雰囲気の中でインタビューをさせていただくことができました。
今回のインタビューでは、礼儀を忘れないこと、尊敬や感謝、謝罪の気持ちをきちんと相手に伝わるようにすること、誠実であることなど、コミュニケーションをとる上で大切な姿勢を学ばせていただきました。また、何歳になっても夢を持ち続けてほしい、という言葉からは、飯田さんの力強さや行動力、夢への情熱が感じられて、これから社会に羽ばたく私たちにとても刺激を与えてくれるものになりました。

 

成城大学経済学部 境新一ゼミ
大西  悠(経済学部3年)
島津ほの花(経済学部3年)
高田 康平(経済学部3年)
角田 愛奈(経済学部3年)

 

前列左から 大西悠、角田愛奈、飯田絵美氏、島津ほの花、高田康平
後列左から 本田敏和(事務局長)、大嶋久幸(常任委員長)、新谷彰子(常任委員)、境新一先生、田辺清(常任副委員長)